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大月人物伝【歴史探訪】烏沢上人屋敷に居住した木食白道

「木食上人(もくじきしょうにん)」というと江戸時代後期の「行道」を思い浮かべる人が多いようです。

行道は下部の丸畑(現身延町)の出身で、45歳の時、常陸(茨城県)羅漢寺の観海上人から「木食戒」を授かりました。行道については多くの書物が出版されているので、ここでは詳細に触れませんが、76歳の時に「木喰五行菩薩」、さらに89歳の時に「木喰明満仙人」と改名しています。そのため「五行」あるいは「明満」と呼ばれることもあり、日本各地に仏像を残したことで有名です。

もともと「木食」というのは修行の一形体で、米・麦・粟・豆・黍などの穀物を食べずに山にこもったり、諸国を巡礼したりする修行の呼び名でした。次第にその修行をしている僧や修行を終えた僧のことも木食と呼ぶようになったのです。

木食たちは修行として行動しているため、記録が残されることはほとんどなく、彼らの活動について詳しいことはわかっていません。特徴的な作風の仏像が残されていることや、断片的な日記などを手がかりにある程度の経歴を追うことができる行道や白道のような例は稀なのです。
わずかな記録をつなぎ合わせることにより、木食の中には、念仏を広めたり、加持祈祷をしたり、仏像を造ったりした者がいたことが知られています。特に仏像を造りながら行脚していた木食僧は、「作仏聖(さぶつひじり)」「造仏聖」などとも呼ばれました。行道はもちろん円空や弾誓(たんぜい)、長音などが有名です。

もともと彼らは正式な仏師ではないので、造られた仏像は作法にかなったものではありませんでした。そのため異端視され、江戸時代を通じて世に出ることはなかったのです。素朴な作風やもてはやされるようになったのは、柳宗悦らが提唱した大正時代末期の民芸運動以降のことで、行道が有名になったのも柳氏らの研究により全国から作品が次々と発見されたことによります。
余談ですが、行道自らが「木喰行道」と名乗っており、柳氏がその作品を「木喰仏」と紹介したことにより木喰=行道という固有名詞のようにも使われます。ちなみに他の木食僧については「口へん」のない「木食」と言うのが一般的です。

さて、木食白道ですが、行道に比べて極めて資料が少なく、その経歴については木下達文氏の研究から紹介します。

白道は宝暦5(1755)年に現甲州市塩山に生まれました。6歳の頃剃髪し父と共に回国納経の旅に出たこともあります。安永元(1772)年に一人で回国に旅立ちましたが、18歳の若さで回国に旅立った理由はわかっていません。この頃は宗安と名乗っていたようです。

安永2(1773)年、伊豆で行道と出会い、4年後の安永6(1777)年に山形で再会してからは、行道の弟子となり、一緒に北海道、東北、関東などを回りました。安永9(1780)年には栃木県の栃窪に滞在して作仏を行い、そのうちの4体に白道の銘が残されています。天明元(1781)年、行道と別れて生地に帰り、周辺の寺院に仏像を収め、加持祈祷をして地元で評判になります。
やがてやっかみからか、法幢院を追われ上原寺に住むようになるのですが、翌年以降10数年間の行動はわかっていません。その後、寛政6(1794)年に江戸日暮里に留まり、関東一円を勧進し、観世音菩薩本堂と金比羅本社拝殿を建立したという記録が残されていることから、記録のないこの10数年の間は各地で勧進活動をしていたのではないかと推測されます。

寛政9(1797)年には現上野原市上野原で加持祈祷により、水の出る場所を探し当てて井戸を掘りました。この井戸は「加持水井」と呼ばれ今でも残っています。その後、文化元(1804)年頃、烏沢の清水入(現大月カントリークラブ内)に庵を結びますが、以降の作品が各地に残されていることから、清水入を拠点に周辺諸国へも行き来していたと考えられています。
烏沢の円福寺や上萩原の法幢院に残されている過去帳には文政8(1825)年12月24日に没したことが記され、言い伝えでは清水入の上人屋敷で入定(生きたまま地下にこもり成仏すること)したとも言われています。

白道の得意とする彫刻や版画の技術は、行道と行動していいる間に習得したと思われ、技法や丸みのある作風は行道より稚拙ながら共通したものが感じられます。

作品は、大月市内にも多数残されています。中でも恵比寿・大黒像を最も得意とし、市内には23組が確認されています。恵比寿・大黒像以外には子安地蔵像・薬師如来像など五躯のほか、版画「わはらの宮」「蚕守護護符」「地蔵菩薩」「七福神」の4種5点、毛筆の「南無阿弥陀仏」の名号3点が確認されています。大月氏は白道の出生地である塩山に次いで多くの作品が残されています。周辺では上野原市、都留市、長野県の伊那、駒ヶ根地方に作品の所在が確認されています。最近では東京都の奥多摩地域から次々に作品が発見されています。
(参考文献1990 木下達文「木食白道」)

編集責任 山口英昭