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大月人物伝【歴史探訪】新選組隊士になったお坊さん

賑岡町強瀬の全福寺では、月の18日に念仏講が行われています。「耳塚さん」は、その時にうたわれる和讃の一つです。

帰妙頂来耳塚さん 北都留郡の強瀬村 耳塚さんとて名も高く
思えば今から100年前 高き葵の徳川氏 集まる浪士300余
旅の疲れを休めんと秀全和尚の饗応で 再び旅に出かけたり
みかどのみ胸に背くわけ 山中明見の村里に 倒れた浪士24名
便りを聞いた秀全師 そいだ耳をば持ち帰り 時は明治元年の帰妙頂来耳塚さん

こうして全福寺に耳塚が作られました。この秀全和尚が、新選組の隊士で、有名な斉藤秀全一諾斎であることはあまり知られていないようです。

明治元年(1868年)、新選組を中核とする甲陽鎮撫隊が、江戸から西進して甲府へ向かう途中、隊員不足から、全福寺に応援を求めました。すると秀全和尚は、「よかろう」と即座に一諾(いちだく)したので「一諾斎」という号がつけられたといいます。何とも豪快な和尚さんでした。

護らせ給え耳塚さん 森も静かな全福寺
ご利やく深きお蔵あり うけた恩は山よりも
再び天下に返さんと 道をば急ぐ甲州路
しばらく仮寝の全福寺 今は元気を取り戻し
けれども立てたるこの願い たちまち追っ手に囲まれて
願い空しく消え果てて 聞くも中々あわれなり
後世をとぶらう印にと 埋めて小さな塚とした
月は2月で日は13日 帰妙頂来耳塚さん

すでに甲府城を占拠していた官軍は、勝沼の柏尾で、甲陽鎮撫隊と対戦しますが、数の上で優勢な官軍に太刀打ちできず、あっけなく敗北しました。これが京都の鳥羽、伏見の戦いで始まった、明治元年の戊辰(ぼしん)戦争でした。

秀全一諾斎は、万延元年(1860年)、全福寺に住持したといわれていますが、全福寺の歴住系譜には載っていないことを、先の住職さんは話しておりました。
考えてみれば、仏法を守るべき神聖な僧侶が殺生にかかわるような行動に参加することは、檀信徒の手前許されるものではなく、寺歴に載せなかったのではないでしょうか。

全福寺の前を流れる桂川をはさんで、向う岸は駒橋ですが、「全福寺の和尚さんが、新選組と歩いていた」という語り草が残されていたといいます。
耳塚の和讃と、この語り草をもってしても秀全一諾斎が、全福寺の住職であったと考えられます。

明治3年、秀全和尚は八王子の寺に迎えられ、寺子屋を開いて子弟の教育に専念しました。しかし、病気になって甲州に戻り、宮谷の正覚寺の住職になりました。大道秀全です。思い出の甲州の山や川の自然が、余程気に入ったのでしょう。
宮谷の大地は、狭いながらも見晴らしがよく、遠く富士の雄姿が眺められ、古代縄文人が居住した地として知られています。

明治6年、秀全和尚は、彼が開いた寺子屋が学制の公布により小学校になったのを機に、再び迎えられて教えることになりました。
明治7年、病がこうじて秀全和尚は亡くなりました。墓は、八王子の堀之内、保井寺にあります。そこから少し離れた所に大塚観音堂があり、「御手の観音様」として有名です。そこが秀全和尚が開いた寺子屋の跡でした。
今は隣接している清鏡寺が管理していますが、この境内に秀全和尚の顕彰碑が建てられています。周りには、観音霊場の本尊とご詠歌を線刻した優美な石碑が建てられていて、その中に混じってひときわ大きな石碑があります。
「斉藤弌諾君碑」と刻まれている400字ほどの碑文です。これは、明治14年11月に秀全和尚の子弟10人が発起人となって造立したことが記されています。「弌」は「一」です。読んでみましょう。

「君諱秀全号一諾」(君いみなは秀全、一諾と号す)で始まり、なかに「安政4年又移転於甲州郡畄軍強瀬村全福寺」(安政4年また甲州郡畄軍強瀬村全福寺に移転す)とあります。そして「明治元年戊辰之変」(明治元年ぼしんの変)が起こるや、けさをぬいで西に東にかけめぐり、戦いが終わると多摩郡に帰り、私財を投じて学校を建て、子弟の教育にあたりました。
大変な雄弁家で、豊富なエピソードを交えて聞く者を魅了して止まなかったといいます。また、とばくや将棋などにも長じていて交友の範囲が広かったという。しかし、病をえてついに明治7年12月18日、62歳で没しました。

秀全一諾斎の波乱にみちた生涯をこの碑文は簡潔に伝えていますが、僧であり、新選組の隊士であり、教師であった秀全には、まだ謎につつまれている部分も多いのですが、冷徹な心情と燃えるような闘魂の持ち主であったことは十分にうかがえると思います。

ちなみに、この新選組の隊士の中に短期間の在隊でしたが、郡内吉田出身の2隊士がいたころに触れておきます。
「歴史読本」に紹介された「高山次郎と小沢宗司の新選組入隊」という、小佐野淳氏の一文から知ることができるものです。
どうやら2人は隊長の近藤勇に心酔し、共鳴しての入隊ではなく、新選組の動向を探るためだったろうと、小佐野氏は、短い入隊の期間を説明しています。
このように、大月、郡内は新選組と関わっていたのでした。

(「威徳寺物語」を参照しました)

2006年5月号/編集・執筆 井上 豊