武七というのは、天保7年(1836)に甲州全域を巻き込んだ大規模な百姓騒動「甲州一揆」の指揮を取った「頭取」と呼ばれた人物である。
山梨県は、甲府市を中心とする国中地方と都留市を中心とする郡内地方に分かれていて、甲州街道では笹子峠がその境界になっているが、天保7年8月、ここで「甲州一揆」と呼ばれている百姓騒動が起き、参加者は3万人から5万人、一揆勢による打ち壊しは甲州全域に及んだ。最初は下和田村の治左衛門(武七)と犬目村(上野原市)の兵助の呼びかけで始まったが、郡内勢が笹子峠を越えて国中に入ると、様相が一変し、「日本三大一揆」の一つに数えられる大騒動となった。
「甲州一揆」は、米不足が原因であった。この米不足は、天保の大飢饉にその源があったが、これに加えて江戸幕府による米の買占めと江戸移送が輪をかけた。
甲府盆地で採れる米は、国中地方の熊野堂村(春日居町)に広大な屋敷を持つ米商人、小川奥右衛門など数人の者達によって買占められていたが、これらの者達は、幕府の指令と己の利を追う商人根性とが合わさって、それまでの売却先であった郡内地方への米を売ることをやめてしまったのである。このため、郡内の人たちが生存のために必要とする食糧は残り少なくなり、生命は危殆に瀕した。そこで農民たちは、幕府代官所の谷村陣屋へ、幾度となく陳情を繰り返したが、陣屋では幕府の意向による江戸への米移送をやめさせる気はさらさらなく、郡内人の陳情はまったくの無駄に終わった。
この飢饉の実態については、大月市通史編「近世」によると次のように記されている。
「下和田村仕立て屋惣兵衛」の報告を記した「凶年日記控」によると、天保4年から降り出した雨は、5年、6年、7年と続き、空の見えた日はほんの数えるほどしかなかった。ことに、この時は天明の飢饉に次ぐといわれるほどの全国的な不作不凶で、富士山麓地方から桂川の流域一帯は、夏中も冷え込み、農作はもちろん、最後の頼みとする養蚕・機業は原料・原糸も乏しくなり、わずかに織り上げた絹、紬も売れなかった。さらに耕地は狭く生産力に乏しいこの地域では、食料品の自給自足も出来なかったので、米穀をはじめ、食品原料の相場は暴騰し、多くの農民は木の実、草の根まで食い尽くし、病人、衰弱者、捨て子、自殺者、餓死人、及び村を捨てた欠落者が続出した。谷村の長安寺前の空き家には100人あまりの死人が積み重ねられ、また犬に食いちぎられた乳幼児の手足が街の中に散乱していた。
猿橋では橋の上から入水自殺する親子があり、家族連れまで甲府まで紬乞いに出かける者もあった、と伝えている。
こうして天保7年の春には、農民の苦しみは極限に達し、この4、5年で郡内の人口約6万人のうち、死亡者は1万8000人、30%にも及んだ。このような状態にもかかわらず代官所は何の手も打とうとしなかった。
この様を見かねた黒野田、白野、中初狩、真木、花咲、大月、駒橋、猿橋、烏沢、犬目、その他22ヵ村の有志が中初狩に集まった。その有志らは下和田の治左衛門、犬目の兵助、黒野田の泰順らの意見を聞き、次のように取り決めた。
それは、一村一名ずつ願書をもって、谷村及び石和の代官所に訴え出て、代官所の力で米穀商人に廻米してもらうこと、谷村の囲籾蔵の米を借りることなどであった。さっそく治左衛門(森武七)をはじめ22ヵ村の代表はみな、一通ずつ願書をしたため谷村の代官所に差し出した。
ところが谷村の代官所では、あれこれ口実をつけて願書を受け付けなかった。それでいて代官所では、ただちにこのことを石和の代官所に報告した。そこで有志の代表たちはまた協議してさっそく、泰順らが国中の熊野堂村の米穀商、小川奥右衛門方に掛け合いに出かけた。泰順は奥右衛門に郡内の農民の窮状を伝え、米の融通を訴えた。ところが奥右衛門は、郡内の農民の心がけが悪いことを色々並べ立てたうえ、郡内の農民の申し入れを断り、6万俵も買い溜めてある米の一粒もゆずろうとしなかった。
治左衛門戻り道推定コース略図
この戻り道は「笹子五里」といわれるが、病身の治左衛門が1640メートルの山を越えての20キロは極めて苦痛であったと思われる。
(参考文献:「大月市通史編天保騒動」「真説甲州一揆、犬目の兵助逃亡記」)
編集責任 井上文次郎