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【過去10月の地震災害】2004年「新潟中越地震」/2016年「鳥取中部地震」

1995年1月17日M7.3、震度7の「阪神淡路大震災」からおよそ10年後の2004年10月23日、M6.8、震度7の「新潟中越地震」が発生しました。「阪神淡路大震災」と同じく観測史上2度目の震度7を記録しました。
この時も私どもは阪神淡路の時と同じく不安を感じながら、発生から10日後の11月3日に長岡市に向かいました。震度7の被害は、途中の車中から見た光景も長岡市内の様子も見渡す限り尽大でありました。
ただ「阪神淡路大震災」に比べて、被災地が神戸ほど密集地でなかった事と、何よりも豪雪地帯でもあり建物の柱・梁の太さなど構造的に保たれている家屋も多かったためか重大な損壊は少ないかに見えました。それでも、震度7の揺れは写真の通りであり、我々は「阪神淡路大震災」の時と同じく、1ヶ月を要した復旧作業に延べ123名を送り込んだのでした。

それからまたさらに10年近くの時を経た2016年(平成28年)の同じ10月、「鳥取中部地震」が発生しました。この時の地震の規模はM6.6、震度6弱でありました。
前述のように「阪神淡路」から10年後の「新潟中越地震」、3年後は「新潟中越沖地震」、4年後「東日本大震災」、その1年後「ネパール大地震」、の翌年が「熊本地震」で同年続けて「鳥取中部地震」。7度目の出動となりましたが、毎年のように発生する災害に驚きを隠せません。
実は震度6弱の鳥取中部地震の際は、我々から見れば今までの地震災害に比べてさほどではないようにも感じられ、向かうべきかを模索していました。また同年4月には「熊本地震」でボランティア活動を行なっており、1年間に2度のボランティア活動が立て続くとは予想もしていませんでした。前回の活動からわずか半年後の連続出動となると…「会社の運営は?」という不安が脳裏を横切りました。
そんな葛藤の最中に、石田耕太郎・倉吉市長から直接要請の連絡を受けたのでした。

鳥取県・倉吉市の方々からすれば、よほど衝撃的な地震災害であったことと思いました。これまでの6度の災害ボランティア活動は、弊社が自主的に向かって行った復旧支援でしたが、今回は被災地の市長から直々の依頼です。これも何かの縁。「要請とあれば馳せ参じなければ!」と、勢いで現地へと向かったのでした。
現地で石田市長にお会いし、お話をさせていただきましたが、非常に防災意識の高い市長さんであると感じられました。市職員さんも、計画性のある動きで被災家屋への対応をしてくださいました。
今回、倉吉市に向かって山梨を出発する際には、地元の大月市議会からも義援金を預かって来ていました。倉吉市長も大月市議会も民間と行政が一体となる意識の変化が感じ取れました。

 この時の鳥取の新聞には「依頼の大半、専門性必要」また「二次災害の危険性」とありました。

新聞各社も、度重ねて起きる災害についての問題意識が高まっていることがわかります。ブルーシートがあっても、高所であるがゆえにブルーシートを掛けてくれる人はプロといわれる職人しか出来ません。しっかり掛けてあげないとブルーシートは用を成さず、家屋が雨風で傷んで住めなくなってしまいます。そのため、再度職人に依頼しなければならなくなる二度手間を招きます。しかも地元・近県の職人は、被災工事に忙しくそれどころではないのが現状です。

【特別な技法でブルーシートをかける】

 倉吉市での復旧活動は11日間と、期間としては長くはありませんでした。しかし、「本当にありがとうございました!」「助かりました!」との被災者の声を聞き、1年間に2度の災害復旧活動も「よし!仕事で盛り返そう!」と、切り替えることができました。
 この熊本・鳥取と1年に2度続いた地震災害で考えたのが、全国の職人に呼びかける組織づくりでした。弊社一社だけでは、毎年のように襲いかかる災害にも限界が来ます。全県から職人が集合できる協会「一般社団法人 災害復旧職人派遣協会」の立ち上げへと動き出したのでした。