山梨から日本、そして世界へ。

2018年6月・大阪北部地震/2019年6月・新潟山形地震

大阪北部地震の発生は6月18日、翌年の新潟山形地震も6月18日でした。
このことは、災害はもはや数年単位ではなく毎年、しかも年に何度も発生するようになる前兆のように思われました。

思い起こせば、2015年4月のネパール大地震、2016年4月の熊本地震。続いて同年11月に鳥取中部地震そして2018年大阪北部地震、2019年新潟山形地震、そして続けざまに千葉県台風15号がありました。
当時、さすがに「熊本」「鳥取」に続いての災害には強い危機感を抱きました。近年の災害の発生頻度にも驚きましたが、その度に被災地でのボランティアを行っている弊社としても、1年に2度の復旧支援は会社の運営にも大きく影響することに危惧も致しました。「もはや、弊社1社だけのボランティア活動ではまかない切れないのでは?」と感じたのです。
この「熊本」「鳥取」の2度の地震災害を機に、2017年2月に一般社団法人 災害復旧職人派遣協会を、都留文科大学の渡辺豊博教授と長崎幸太郎衆議院議員(当時)と立ち上げたのでした。
設立の動きは素早く、山梨県庁で渡辺教授と弊社の石岡が記者会見を行って発足しました。
その翌年に「大阪北部地震」が発生しました。派遣協会に登録いただいていた、グランドワーク三島の皆様・保坂設備様・鈴木表具師・西村大工、さらに、卯月政人県議・卯月林業様も参加していただきました。少数ではありましたが、当協会と協力会の第一歩を踏み出したのでした。

また、大阪では地元選出の辻本衆議院議員、森本市議会議員も駆けつけていただきました。
特に、各地から連合の皆様が毎日6人~8人と集まり、手伝っていただき、夏の暑い最中でありましたが、非常に高い作業効率で復旧支援を終える事ができました。
しかし、現地での支援活動は過酷を極めました。
当初14日間の予定でしたが、ちょうど梅雨時でもあったことから雨に妨げられ、6月25日~7月14日の20日間にも及びました。被災者も多く、屋根が壊れたまま困っている方々の心中を思うと、途中で引き上げることはできませんでした。7月の大阪の暑さの中、しかも屋根の上での作業は想像を絶する厳しさであり、全員の顔は強烈な日焼けで真っ黒でした。

活動を終えて山梨に戻ってから間もなく、大阪全域が台風12号に見舞われました。一緒に活動していただいた組長さんから次のようなお手紙をいただきました。

「皆さんに作業していただいた屋根のブルーシートは20mの台風にもビクともせず、シートの飛散・雨漏りもありませんでした。別の家屋は5軒に4軒ほどの割合で土嚢やシートが落下し、雨漏りがしていました。今朝方、近所の方々と我が家を見ながら、口々に感謝の言葉を漏らしていました」

という感謝のお手紙をいただきました。また「社名や、住所などを伺っていませんでしたので、インターネットで調べてお手紙をさせていただきました」とありました。参加した皆で読み合いながら「人はボランティア活動によって、自分を見つめなおす」との言葉が身に沁み、我々の心を熱くしました。

その大阪北部地震から1年後に新潟山形地震が起こりました。
当時、別の支援活動のためにネパールに滞在していた弊社の石岡と連絡を取り合い、我々は早々に準備態勢を整えました。その日のうちに長崎知事より出動が可能かを確認する電話が入り、出動可能との返事を致しました。
直ぐにネパールから帰国した石岡が、山梨県との協定書を締結。3日で協定を締結したのは防災局も初めてだったそうですが、ひとえに長崎知事が熊本地震の際に現地で一緒に活動をした経験と防災意識の高さからであったと思います。
長崎知事の決断と動きは早く、我々は災害発生から5日後には新潟へと出発したのでした。
この時は防災局職員2名も参加していただき、屋根の雨漏りを止めることの重要性や施工方法など、共に復旧作業の中で学び合いました。「行政」と「民間」の一体での活動は全国初であったことでしょう。

山梨県が動いたことで、受入れ側(新潟県から村上市)の反応は全てがスムーズに動いて行きました。被災地は幸いにも豪雪地帯であることから、建物の柱も梁も太く、強度は大阪に比べて格段に高かったため震度6強の大きな揺れでも甚大な被害はありませんでした。
災害復旧は短期間で終えることができ、5日間の活動で山梨に帰ることができました。
何より喜ばしいのは「行政」と「民間」の初めての災害復旧協定での活動であったことです。そしてこれが広島県・福岡県との協定に弾みをつけ、東京都も協定に向けて動き始めるきっかけとなったことです。その3ヶ月後に、9万棟に及ぶ被害を出した「台風15号」が千葉県に上陸し、長崎県知事のもと2度目の出動となったのでした。