山梨から日本、そして世界へ。

2015年・ネパール大地震での活動【その1】

写真:ネパールの世界遺産ダルバール広場

東日本大震災から5年後の4月25日・11時56分にネパール大地震が発生しました。
地震の規模はM8.1。直下型地震では「阪神淡路大震災」の30倍。死者は8,460人・被災者は約800万人の大被害であり、この時の揺れは遠く台湾でも観測されました。(日本はこの1年後の1月に熊本大震災に見舞われています)

地震が起こらないと言われたネパールで、まさかの大地震でした。つまり「地震はどこでも起こりうる」ということです。エベレスト登山中に雪崩に飲み込まれた方もいました。ネパールには世界遺産が数多くあり被害は甚大でした。
家屋はレンガ積み造りが多く、コンクリート造りであっても日本とは構造が違って脆弱な造りであるため、被災者は一瞬で住む場所を無くしてしまったのでした。  
広場という広場には、粗末なテントでしのぎながら援助を待っている人々。ネパールへ行ったことがある方は経験があると思いますが、水道の蛇口から出る水は飲めません。ペットボトルの水のみが頼りであり、被災地の状況は悲惨そのものです。

大地震から3日後の4月28日、日本ネパール友好議員連盟・二階俊博会長から招集が掛かり、長崎幸太郎衆議院議員と共に自民党本部に伺いました。
その同じ月の4月7日には、小生がネパールから元首相夫妻をお連れして山梨・静岡県をご案内した後に、二階会長はじめ20名程で会食をしたばかりでした。その2週間後の大地震ということもあり、二階会長の動きは迅速でした。
議員連盟の国会議員10名、アジア局から5名、ネパール大使館からバッタライ大使はじめ3名、民間から小生が呼ばれ、意見を求められたので、率直に申し伝えました。
「先ずは、食料・水・毛布・テントなどは勿論不足ですが、インド・パキスタン・中国などの近隣諸国から入っております」(交通事情で避難民には行き届いていませんが)
「今まで、阪神淡路、新潟中越、新潟中越沖、東日本の4度の震災で経験したことは、トイレが不備な事です。日本での被災は冬・秋でしたので、衛生上の問題がそんなに深刻にはなりませんでした。しかしネパールは今でも暑く、さらにこれから本格的な夏に向かいます。普段でも“し尿”は、垂れ流しの中ですから、先ずは至急に簡易トイレを配布。続けてバイオトイレの設置を望みます」
との話をさせていただきました。
日本での被災地でさえ、トイレが一番苦労します。
ネパールは現代でもトイレ事情は悪く、し尿は河に垂れ流し状態で悪臭が漂います。国際空港のトイレでさえも、日本人は使用を避けるほどです。不衛生からの感染症・土壌汚染が深刻になるのは目に見えていました。

自民党本部から戻り、弊社も早速災害ボランティア活動計画作成に着手しましたが、未だに電話は不通で大使館もつながりません。
これまで国内の被災地でのボランティア活動は4度の経験を積んで来ましたが、海外ボランティア活動に向かうのは初めてでした。
思えば大地震前年の2014年11月1日、ネパールでの活動10年を機に、この先30年交流を決めたのでした。
ネパール政府からNGO法人として認可を受け「ネパール日本友好協会」を立ち上げました。
協会の設立活動の一環として、先ず初めにネパールへ「バイオトイレ設置」を計画していました。富士山頂にバイオトイレ設置の実績をお持ちの、富士山学で著名な都留文科大学・渡辺豊博教授に協力を依頼ののち、その年の2月にネパールを訪問していただき、直接、大統領・首相への説明もしていただきました。

「ネパール日本友好協会の設立総会」記念パーティーの様子
(バムディブガウタム副首相、鶴保庸介衆議院議員、小川正史ネパール大使、レックナトギミレ会長、弊社石岡が出席)

その矢先の大地震でした。NGO法人認可を受けて半年後の本格的な活動が、まさか大地震の被災支援となるとは夢にも思いませんでした。
(現在、バイオトイレ設置は計画から5年を要した2019年に、国・大臣から「世界文化遺産パシュパティナート寺院」にようやく設置許可を得ました。
昨年5月に設置決定していましたが、新型コロナウイルス禍であるため来年となる予定です)

このような縁があり、渡辺教授率いる「NPOグラウンドワーク三島」や「都留文科大学生」の協力を得てネパール支援に向かいました。
(後に、参加した学生たちから、渡航費や宿泊費はアルバイトなどで工面したと聞き感動を覚えました)
「紅富士太鼓」メンバーも加わり現地調整に入りました。さらに、渡辺教授の動きは素早く、物資調達のため募金活動も行う事になりました。現地とは一週間ほどで連絡がつき、不足している必需品などについて話し合った結果、恵まれない村々に配るよう調整することになりました。食料、薬、オムツ、生理用品、簡易トイレ等を持参することに決め、食料は高騰していたが現地調達することに決めました。

募金活動は山梨・静岡県で行い、山梨県側は、長年ネパール学生と交流のあった大月市長・山梨市長の協力も得て、市庁舎入り口に募金箱を設置していただきました。
ユネスコ協会・山梨県環境会議・日川高校・甲陵高校・紅富士太鼓の協力を得て、駅前で10日間の募金活動を行いました。
活動の依頼はしていませんでしたが、自ら進んで参加をしてくれた特に学生の方々には頭が下がりました。
チラシを持って行かれた方など、多数の方々に協力していただき、後日事務所まで持参してくれた方もいらっしゃいました。
その結果、なんと154万円の寄付金と、物資もたくさん集めることができました。さらに、長年交流を継続している山梨南中学生からは99,000円もの寄付金もいただきました。
その後の寄付金を合わせ、総額205万円。心温まる人々の善意に心を打たれました。同時に、共に活動したメンバーの素早い行動の賜物であり、善意の行動が人々を動かしたと自負しています。「いざ!」となった時に、どう動けるかが試されました。

現地「ネパール日本友好協会」側と毎日のように連絡を取り合っていましたが、トリブバン国際空港は救援物資の飛行機でごった返し、混乱が続いていました。(ネパール国際空港は一港のみ)
ネパールの日本大使館からは、様子を見るようにとの指示もあり、日本からの様子見が続いていました。
しかし居てもたってもいられず、5月30日、10名の海外ボランティア隊として羽田空港を後にしたのでした。

(記:石岡/つづく)