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熊本地震から7年を迎えて

2011年の東日本大震災から7年後の、2016年4月16日「熊本地震」では、夜中の1時に震度7という大きな揺れに見舞われました。
夜中の1時というのは一番不意を突かれ、恐怖を抱く時間帯です。しかしこの熊本地震の実態はこの揺れだけではありませんでした。実は2日前の4月の14日、夜の9時26分に震度7の揺れを記録しており、これは気象庁震度階級で最も大きい震度7を記録した初めての揺れでした。同じく10時には震度6弱に見舞われ、22時に震度5弱、23時・震度5弱、15日・0時過ぎ震度6強・お昼12時・震度6強、その3分後・震度5強、また1分後・震度5弱、2時間後・震度5弱、そして本震とされた16日・1時25分、その後さらに、震度5~6までの大きな揺れが11回続いたのでした。7月までなんと5弱以上で25回の揺れが観測されました。

このようなとてつもない揺れが連続していたとは、被災者の恐怖は計り知れません。
先月、仙台の宮城野区(被災地に赴いた地区)で震度5強の揺れで恐怖に引き込まれたことを思い返すと、熊本地震は想像を絶する状況であったと推察に難くありません。
熊本地震の死者は273名・負傷者は2809名と発表されています。
その間、被災した屋根の雨漏りを防ぐために無理をして屋根に昇り、落下し死亡された方、ケガをされた方々は多数おられました。

「慣れないのに、なぜ高いところに登るの!」「危険だからやめなよ!」と、被災されていない方々はよく言われます。
しかし、被災者から話を聞けば聞くほど、止むに止まれず、不慣れではあるが、崩れかけた高い屋根の上に登ってしまう実情が見えてきます。

家屋が壊れ、屋根が損壊した状態で雨が降るとどうなるか…
住み慣れた部屋・タンス・食器棚・電気製品・壁・クロス・畳、さらに思い出の品々が雨にさらされ、ことごとく使えなくなって行く。
家具や道具はいずれ買い替えられたとしても、雨風が入り込む家には住めません。つまり、帰る家が無くなってしまうのです。
だから、怖さをこらえ、這いつくばるように必死になって屋根にブルーシートを張っているのが現状です。

我々は、被災者から直接話を聞ながら「怪我した方は居なかったですか?!」と、問いかけます。
いない時は「よく屋根に昇りましたね!」「必死でした…」「上手に掛けてますね。凄いですね」と、褒めるのですが、実はほとんど雨漏りが止まる様な掛け方ではないのです。
一般の方には出来るはずも無いし、無理なのです。でも、必死でブルーシートを掛け続けるのです。
特に、建てたばかりの家や、先祖代々から続いている家屋を持っている方々は、気が気ではないのです。
ある被災者は「夜に降り出した雨の中、娘と一緒に登りました…」と。また、ある母子家庭の親子は「引っ越ししようよ…(娘)」「そうだね…(母)」。
片づけても、片づけても、春先の4月の降り続く雨に心が折れて行ってしまうのです。

弊社はこの時、災害ボランティアのブルーシート掛け隊として6度目の出動となりました。
震災発生翌日から出発準備に入り、ブルーシート500枚・材木・食料などを6人乗りトラックとユニック車の2台を借りて積み込み、4月27日に8名で大月を出発しました。
昼過ぎから荷物を積み込み、14時に出発。運転を交代しながらノンストップで14時間後に到着しました。現地に入ると、地震の被害は広範にわたっており、地元(熊本・大分・長崎)宿泊施設は閉鎖されていました。
あの東日本大震災の時でさえ、少し離れた場所ではホテルが再開していたことを思うと、熊本は壊滅的でした。我々は手作りの大きなテントを持参しており、ユニットバス・ボイラー・トイレなどは初めての経験となりました。

熊本までの距離は1,200キロ。さすがに長く、身体にこたえました。とにかく眠い! しかしすぐに活動開始です。現地で被災者を支援していた「グラウンドワーク三島」のメンバーで太田黒淳雄氏から被害状況を聞きました。
材木は、長くお取引を頂いている「都築木材」さんより1,000本が提供されていて、直ぐにブルーシート掛け作業に取りかかることができました。この様に、災害ボランティアは沢山の方々の支援を頂き成り立っています。
被災された方々の喜びはひとしおです。拝むように何度も手を合わせ、お礼の言葉を頂きました。いかに、待ち遠しかったか…。
被災者の雨漏りとの戦いは、言葉に言い表せません。
しかし問題も発生しました。熊本の家屋の屋根は傾きの急な六寸勾配近くが多くを占めていました。毎年来る台風に備え、家屋が飛ばされないように、わざと重い瓦で負荷をかけ勾配を急にすることで雨漏り対策となっています。昔からの知恵なのです。したがって、屋根に登った時点で、崩れている瓦と一緒に職人たちが滑っていく。つまり、登っていられないのです。山梨と違って雪が降らないので、屋根に雪止めがありません。滑ったら間違いなく落下します。

そこで急きょ、すべり止め用に軒先への木材使用が考案されました。
両サイドのブルーシートの軒先に桟木を固定し、足場のように加工して作業を進めました。これは作業する職人を後方から命綱で支える際にも役に立ちました。この発案は想像以上に安全性に優れ、なおかつ風でブルーシートが飛ばされません。その工法が現在に生かされ、その後の「大阪北部地震」「千葉県の房総半島台風」では、掛け終わった後に襲った2度の台風や強風に耐えられる事が立証されました。我々はこうした極限での活動を通して得られた「技術・安全・強度」の防災実演講習を、山梨県、広島県で執り行いました。

熊本県内の被災地の様子はどこも悲惨でした。我々の活動は大津町・宇土市を拠点とし、宇城市・熊本市など広範囲に及びました。
特に、南阿蘇町の被災家屋に向かった際には、阿蘇大橋の落橋のために2時間ほどの山越えをして走りました。(※2021年3月7日開通)
この時、当時衆議院議員の長崎幸太郎議員も参加し、一緒になってブルーシート張りを手伝って頂きました」。今更ながらに、激励と労いの言葉や、心温まる差し入れに感謝申し上げる次第です。

こうした被災現場で特に印象が深かったのは、西原村大切畑の28世帯の集落でした。2度目の震度7の本震で25世帯が全半壊し、倒壊した家屋には8名が生き埋めになりました。しかし、夜中にも関わらず一人の犠牲者も出さず、速やかに助け出した集落でした。公助を待たず数々の救出作業を行い、道路整備・給排水・自家発電・炊き出し・食料まで「自助・共助」で、行政の力を一切借りずに立ち向かった「奇跡の集落」と言われました。
なぜ行政を待たずしていち早く立ち直り、地域ごと災害に立ち向かうことが出来たのかを伺いました。すると、有事の際を想定し、一年に数回防災訓練をしていたとのこと。一人暮らしのAさんは、Bさんが担当。電気はCさん、水道はDさん、炊き出しはEさん、道路整備はFさん…といったように、常日頃から役割分担を決めていたそうです。
結果、誰一人として大きなけがも無く災害に立ち向かっていました。この集落は、テレビで全国放映されて話題となりました。我が地域も、心掛けておかなければならない教訓です。

また、参加者の中にはグラウンドワーク三島と大学生・高校生も加わっていました。
その中の一人、高校生のH君は小学校から不登校でフリースクールに通っていました。ご両親から今回のボランティア活動への参加依頼があり、こちらも当初は戸惑ったのですが、本人の笑顔と必死に取り組もうとする気落ちが感じられたので引き受けることにしました。
被災地までの長い道のりや買い出し。毎日テント内で7~8人で食事をして、片付けし、洗い物を終え、ようやく雑魚寝で眠りにつくのですが、小生のいびきは定評があり、途中何人かは車中に移動して寝ていたようでした(笑)。
そんな中、彼に「寝れたでしょう?」と声をかけると、満面な笑顔で「はい、大丈夫です!」と…。慣れない環境で間違いなく疲れているし、苦痛なはずなのに、笑顔は絶やしませんでした。生まれて初めての災害復旧作業は、当然不慣れでぎこちないのですが、彼の一生懸命に立向かう姿勢は職人たちの活力となり、アイドル的な存在になっていきました。一日の災害支援を終え、職人たちから「頑張ったな!」「Mよりもよく働いた!すごいよ!」「明日も頑張ろう!」等と褒め称えられている様子は、私の目には、H君を励ましながら、きつい作業で疲れた職人たちが己に言い聞かせながら励まし合っている様に映りました。

まさしく「人はボランティア活動によって国・社会、そしてそこいる自分を見つめなおす」の言葉が、現実に感じられた瞬間でもありました。
このように、被災地に向かい、闘いを起こす事によって数々のドラマが生まれます。
余談ですが、その後のH君は公立大学英文科の入試を一発合格で入学。さらに、海外留学を果たしました。また、何処かで会えるときが楽しみです。