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2007年(平成19年)7月16日 新潟中越沖地震

ボランティア元年と言われた「1995・阪神淡路大震災(灘区)」から9年後に発生した「2004・新潟中越地震(長岡)」。この地域はさらに3年後、震度6強・M6.8の「新潟中越沖地震」に見舞われました。
この時、柏崎原子力発電所の震度計は震度7と表示されたそうですが、前回災害ボランティアに入った長岡でも震度6強が観測されていました。
この新潟中越沖地震の際も、我々は災害ボランティアとして柏崎へと向かいました。この被災現場から初めて「紅富士太鼓」のメンバーも活動に参加しました。

まず柏崎市長を訪問した際に、開口一番「前の中越地震で、ようやく立ち直ろうとしていた時期にまたドカンと…」という話をお聞きしました。
確かにわずか3年で2度の大地震に見舞われるとは、相当大きな精神的負担であることを感じたのでした。
市長への挨拶を終えると、次はボランティアセンターへ向かいました。
実は災害時のボランティア活動に於いて、この新潟中越沖地震が、初めて被災地でのボランティア受入れ態勢が整備された時でもあったと記憶しています。

阪神淡路大震災・新潟県中越地震までは、ボランティア希望の民間人がそれぞれ勝手に被災地へ赴いていたのですが、新潟県では2度の大きな震災での経験からか、この中越沖地震からはボランティアセンターが窓口として稼働していました。
それまでは、リュック一つ持っての“物見遊山”と言われても仕方がないような学生さんのような方も多かったのですが、この時は装備が十分でない方々は返されていました。
弊社はこれまでの阪神淡路大震災・新潟県中越地震での2度の災害ボランティア活動の経験が身について来ていたため、ボランティアセンターとの打合せをスムーズに進めることができました。

この時は7月24日~8月7日の15日間にわたってのボランティア活動となりました。
我々は柏崎市が準備してくれた「常盤高校体育館」で寝泊まりをしながら活動を展開しました。辛うじて設備的にあるのはトイレと水道のみではありましたが、相当恵まれていると言って良い環境でした。
夏場の活動であり、クタクタになって体育館に帰ってくると、勝手に我々の布団で寝ている若者もいました。何しろ他では、宿泊施設が無いため、体調を崩して救急車を呼ぶことになるなど逆に面倒を掛ける方々も出ていました。こうした現状から、ボランティア活動の在り方、被災地への向かい方が論じられることとなったのでした。

格言に『十年樹木、百年樹人」10年先を思うならば木を育てよ、100年先を思うならば人を育てよ』とあります。
弊社は、これまで大規模な災害時に10回にわたって現地での災害ボランティアとしての訓練を重ねてきました。そして活動の中で、もっと迅速で的確な復旧作業の必要性を感じ、実績への評価に後押しされる形で「一般社団法人災害復旧職人派遣協会」の設立へと動きました。
設立後、これまでに山梨県(2019)・広島県(2020)・福岡県(2021)との災害時協力協定を結んでいます。現在さらに、東京都・静岡県・山口県・宮城県・愛媛県・岡山県・滋賀県へと話し合いが進められている状況です。

4半世紀・26年の月日にかける想いは、ようやく花が開きつつあると実感しています。
そしてバトンを繋いでいく戦いに向け、さらに前進して参ります。