4月25日の「ネパール大地震」から、約1ヶ月後の5月30日に初の海外ボランティア隊10名は、日本を出発しました。
メパールの首都カトマンズにあるトリプバン国際空港までの道のりはかなり遠いものでした。予定の便が羽田を発つのは夜中でしたが、物資の積み込みチェックやタ食を考えるて19時に集合することに。山梨・静岡のメンバーは16時頃の出発でした。
羽田出発からタイまでは約7時間。早朝4時半頃にトリブバン国際空港に到着。4時間半の待ち時間を経てネパールまで3時間半。飛行機に乗り始めて到着まで約15時間を要しました。機内では熟睡できるはずもなく仮眠程度の睡眠でした。こうして6月1日に到着したのでした。
ホテルでチェックインし、ボランティア活動の打ち合わせをしてからタ食。結局、約24時間後にやっと睡眠(爆睡)を取ることができたのでした。まさに体力との戦いともいえるスケジュールでした。
「大丈夫?疲れていない?」励まし合いながらの長い道のりは、参加者10名。全員元気でした。
「ネパールのために!」との思いが、精神力を強くさせているのが分かります。
首都カトマンズのトリブバン空港には、世界各国からの支援物資が山積みになっていました。
日本においての災害時でも同様ですが、緊急物資はほとんど市民には直ぐには行き届かないのが現状です。
なぜならば、道路は寸断され、家屋やビルに生き埋めにされた遺体の捜索、倒壊した家屋や道路の整備、水道設備などのインフラ整備で役所は動きが取れません。
政府も役人も被災者であり、物資がいくら入ってきても配送が行き届かないのです。何処の国でも、災害時に物資を送るだけでは被災地には受け入れの困難があるのでしょう。東日本地震では道路が寸断され、地域は孤立化していました。やはり送るだけは…。実際に持参して困っている地域に運んであげるのが一番であることは間違いありません。
新潟沖地震の際は、何万箱の善意ある品々が体育館に運び込まれたものの、仕分け作業ができずに殆どと言っていいほど廃棄処分となりました。中身はお菓子や長くつ、洋服、下着など様々。これを開封するための人員も労力もなっく、結局は焼却処分費に何億とか…。
態本地震では、水が不足とのことで各地から何百万本が郵送されましたが、被災地の事情が落ち着きを取り戻せば処分となります。災害時における水・食料不足は3日から1週間くらいです。その後の配送は無駄が多くなると言っても過言ではありません。災害時の配送は翌日には到着せず、交通事情が悪いため数日間後回しとなるのが実情です。それらが届く前に自衛隊の物資配布が始まります。
千葉県の台風被害では、全国各県からブルーシートが送られましたが、各市町村にはブルーシートが山積みで、市民は誰かに掛けてもらおうとして10枚ほど持って行きますが、屋根に登って掛けられる人がいません。ただただ、玄関先に積み置いてあるだけ、という家ががほとんどでした。
山梨県は当「災害復旧職人派遣協会」と協定を結び、ブルーシートと屋根に登れる職人をセットにしました。全国初の画期的な仕組みを作りだしたのです。今、全国展開へと動き出しています。
話を戻します。我々はカトマンズに拠点を置き、ここからは「ネパール日本友好協会」が中心となって翌日から災害状況の視察を行いました。3万人もの被災者が軍の広場で援助を待っていました。どこの被災地でも水とトイレが問題です。
渡航する前に打合せはしていましたが、現実は厳しいものでした。何度か打合せしながら、地元ロータリークラブとも連携をはかりました。日本から持ち込んだ物資と義援金200万円を手渡し、米・大豆・小麦粉・トウモロコシ粉・砂糖・塩などの食料を事前に準備をして頂きました。さらに、各学校への教科書、筆記用具、カバンなどを購入し配布しました。
翌日、往復150km、12時間の道のりの先にあるカウレ村に向かいました。中型バスに我々10名とネパール日本友好協会のメンバー5名、その他、医師団と看護師15名の総勢30名。さらにトラックには食料などを満載し、バスにバイオトイレ、テント、Tシャツなど積み込めるだけ積み込んで出発。途中の集落は、何処も壊滅的な様子でした。
山々には日本のようにガードレールらしきものは無く、道路はデコボコ道でした。途中、昨日までそこになかった大きな石に道を塞がれました。つい先ほどの余震で落ちてきたようです。全員降りてトラックを押したりもしました。崖下に落ちている車も目に入ります。日本と違い、物資や道路整備にしても、地震から1ヶ月以上たっていてもほとんど支援がないのです。
そんな道のりで6時間かけ、ようやくカウレ村に到着しました。カウレ村には警備も含め軍隊・外務大臣も参加してくれました。村人たちは、辛うじて被災を免れた家に仮住まいして貧しい生活をしていました。軍隊のお陰で混乱もなく、村全体の方々に一人一人物資を配給でき、医療団も無事に治療に専念することが出来たのでした。ともすれば、物資の奪い合いなどが起きても不思議ではない状況でもあったのです。
災害支援の段取りを付けてくれた「ネパール日本友好協会」のメンバーに心から感謝を申し上げました。同時に、ネパールのメンバーも大臣も軍隊も「遠い日本から、村まで駆けつけてくれた友人!」と、感謝の言葉を村人たちから伝えられました。
物資を送るだけではなく、我々も同苦し、人と人、心と心の結び付くことの必要性を感じました。災生時に資金や物資を贈る想いは大切です。
もう一歩踏み込んで「身を投じる覚悟を持ち続けてゆきたいと思える人材を育まなければならない。」と実感しました。
こうした支援活動の間を縫って、デューパ前首相を表敬訪問し、サワセナ高校へ義援金を持参しました。
トリブバン大学、ナーヤアーヤム大学、マルキ政府書記官などとの会談を通し、今後の日本とネパールの交流をさらに深めることを確認し合いました。
5月30日から6月3日までの5日間ではありましたが、お陰様で活動期間中全員が元気でした。10名のメンバーのうち6人がネパールは初めてでしたが、ケガもなく無事にボランティア活動をやり切って帰路につくことができたのでした。