思い起こせば、26年前の2月は神戸市灘区で6名編成の第1陣メンバーが、神戸市灘区で屋根への「ブルーシート掛けボランティア活動」に没頭していた月でした。
1995年1月17日・5時46分・M7・震度7・「阪神淡路大震災」で、6,434名が10秒の揺れで亡くなられました。
4日目に雨が降りました。
当時、事務所でテレビにかじり付きで見入っていた私は、屋根屋職人の血が騒ぎました。
「雨漏りがする!」
「家具も衣類も電化製品も全てダメになる!」
「屋根にシートを掛けなければ!」
「行くか!」
「行こう!」だけで、行くことが決まったのでした。
費用は?…考えませんでした。費用を考えたら行くこと出来なかったかもしれません。
若い時から「いざ!という時に動ける人間たれ!」の信条を胸に被災地に向かう決意をしました。
我々が大月を出発したのは、震災から10日後の1月28日。当時の故秋山重友大月市長に、ボランティア活動に赴く旨を伝えました。しかし、兵庫県全域が電話不通で、行政間で連絡が取れたのは3日目。ようやく兵庫県知事と掛け合い、向かうことになりました。災害から10日目のことでした。
実は、1週間での準備は困難を極めました。第一に、ブルーシートが集まらない。
ある業者は「1,000円のシートが2,000円になっちゃって…」ということでしたが、結局、「そういう趣旨じゃ700円でいいよ!」…と。
またある業者に「材木寄付してもらえませんか?」とお願いすると、「いや~うちも寄付したから…」と、たった数万円分ほど。当時その材木店からは年間数百万円分くらい仕入れていたのに。
かと思えば、逆に、「いくらでも持って行ってください!」と大量の材木を持参してくれた材木店もありました。年間何回も注文していない材木店でしたが、帰社後、取引をお願いしました。
食料や衣類を持参してくれた市民の方々もたくさんいて、被災地で配る事も出来ました。善意の真心を届けることが出来たのです。
逆に被災地では、ブルーシートを数枚張るのに、10万円とも30万円とも言われていた時でした。善と悪とは言いませんが、私は学校講演などで「いざ!となった時、有事の時に起こる心の変化」等を伝えています。
大月市長には山梨県警とも掛け合って頂き、緊急車両車として許可証を出して頂きました。
さらに、未曽有の大震災に赴くにあたり大月市庁舎前で激励の訓示を頂き、大月市職員が両サイドに並び、無事を祈りながら手を振って送り出してもらいました。感動的であり、市民の期待を一身に背負い神戸へ出発した思い出は、未だ鮮明に覚えています。今でも市長のご努力と粋な計らいに感謝を申し上げる次第です。
同時に、迷いと怖さもありました。全員が初めてのボランティア活動で、何をどうするのか、何が起こるのか?全てが手探りであり、正直不安を抱え、「気」だけで向かったのでした。
メンバー一同と当時大月市議会議員の杉本栄一氏に同行して頂きました。全国から物資・資金の供給があったとしても「職人派遣」は山梨県で初めてであり、災害時における初めての試みでもありました。弊社においても、日本全国民においても「ボランティア元年」のスタートが「阪神淡路大震災」だったのです。
しかし災害現場は、市・県双方とも全てといっていいほど混乱していて、
「派遣します!」
「そうですかお願いします!」だけで、何をどうしたらいいか実際分かっていませんでした。当然のことだったでしょう。
当初は東灘区に派遣されたものの、東灘区は倒壊件数が多く屋根どころではありませんでした。東灘区役所から灘区へ向かうよう現地で指示があり、28日の夜中に灘区役所に到着。
道は電信柱や家屋の倒壊で塞がられ、未だに倒壊した家屋から煙が上がっていました。その下には…合掌。災害の現場は本当に悲惨でした。
我々が夜中に到着できたのも、緊急車両の許可証のお陰でした。警察、消防、自衛隊が警備にあたっていましたが、どんな道でも通して頂きました。この緊急車両許可が無ければ、何日に到着できたか分かりませんでした。
夜中にも関わらず、灘区長はじめ職員の皆様方の顔を拝見した時、誰もが不眠不休で対応していることを感じ取れました。区長から「何日滞在でしょうか?」と聞かれ、「一ヶ月のボランティア活動を行うよう準備をしてきました」と答えると、「え!?一ヶ月もですか?」と大変驚かれました。
(*失礼ではありますが、当時物見遊山で1泊2日程で、ボランティアに参加している方々も多く、問題も発生していました)
弊社は、何があってもいいように、4トントラック・2トントラックに、テント・布団類・食料・ガス・食器・バイク・木材・ブルーシート1,000枚など積み込んで来ていました。自給自足で被災者と同じ立場と思っての支援活動でしたが、「それでは是非、4階の空き部屋を使ってください」ということで、雨つゆをしのげることになりました。これもまた、区長の計らいでした。勝手に来たボランティア隊に、区もそこまでの配慮は考えていなかったはずです。
(*4階まで上げる水は重かった。特にトイレ使用は困難でした。帰ると誰か他人が排便、それを処理するのが日課でした)
これも一つには大月市長からのメッセージと、杉本市議会議員という行政と民間の一体感からの評価の表れと言えるでしょう。現在「山梨県」と「一般社団法人 災害復旧職人派遣協会」(H・29設立)との活動も、県防災局との協力体制でボランティア活動を行っていますが、迎え入れの被災地側にとっても県からの職員派遣は安心感と希望を与える行動だと言えます。
「災害復旧職人派遣協会」は、都留文科大学の渡辺豊博教授と、当時長崎幸太郎衆議院議員と立ち上げました。
現長崎山梨県知事は、熊本地震の際ご一緒されたのがきっかけでした。さらに現在では、卯月政人県議はじめ4名の県会議員も大阪北部地震、千葉沖台風の時も参加してくれています。
この様に、行政、民間、議員方との行動は、国をも変えられる体制を築き上げる一歩であり、これから更に連携強化の必要性を訴えていかなければなりません。その意味では、大きな一歩を踏み出すことが出来ました。
雨漏りは、住民を自宅に住めなくして被災弱者にします。そこで屋根の補修及びブルーシート掛けで半年以上は雨漏りから家屋を守るのです。
涙しながら感謝してくれる被災者の皆様。若い職人の意識が日に日に変わり、次第に「人のために尽くす!」の喜びに変わって行きました。ボランティアのメンバーには、元暴走族やシンナーの常習者の若者もいました。震度3~5の余震が頻繁に起こる中、命綱を支えながらも「つかまれ!落ちるな!」の注意の怒号の中で被災者から「大丈夫!無理しないで!」の掛け声を受け、不思議にも被災者と共に戦っている一体感が生まれました。真の社員教育とは、現場で職人魂を発揮して、人のために尽くすボランティア活動にある事を実感しました。
地震災害は続いています。新潟中越、中越沖地震、東日本、ネパール、そしてつい先日東北で起こった震度6強の地震。弊社だけでは限界です。1年に2度の災害は「熊本」「鳥取」で経験しました。
「全国の同志に呼びかけよう!」と、現在、(一社)災害復旧職人派遣協会の広島支部と広島県が協定を結びました。さらに、静岡、島根、岐阜、岡山、八王子、九州、北海道と、輪は広がって来ています。
コロナ禍であっても、災害は突然襲って来ます。全国一つの県に5名の職人が登録して頂ければ、約200名の職人が被災地において活動ができます。
「屋根のブルーシート掛け」は、人々の暮らしを守り、地域コミュニティの崩壊を防ぐ、命を守る支援だと自負しております。